昭和43年7月10日 月次祭 ★



 今日、1時の御祈念の後に頂きました御理解でございますが、「食物はみな人の命のために天地の神の作りあたえ給うものぞ。何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れなよ」と。「食物はみな人の命のために天地の神の作りあたえ給うものぞ」と。ここまでですね、御神訓は。ですが、いよいよ、時候も暑うなってまいりましたから、特に食べ物には用心いたしませんと、思いもかけない病気をいたします。
 もう冷蔵庫に入れておきさえすればええと言うて、いけません。やっぱりあの、用心した上にも用心しなければいけない。同時に一番、心にかけなけれならないことは、食物はみな人の命のために天地の神の作りあたえ給うものであるということを、ひとつ知っておかなければなりません。もう食物の全て、ね。天地の親神様が人間の命のためにあたえて下さったもの。
 これは牛のためとか馬のためとか、ね、鶏のためにお作りあたえられたのじゃない、人間のあたえられておる食物は、ね。よかよか、余ったっちゃよかがの、もう鶏にやるけんで(笑)。あれはご無礼です。命の、命のために、ね、人間氏子の命のために下さったものなんだ。だからもう、お粗末にならなかれば、その牛やら馬やらに、または鶏にやればもうお粗末にならないような思い方が間違いなんです、ね。
 それでもやはり、余ったりいたします、ね。ですからそこは、当たり前じゃなくてから、やはりお詫びをさして頂いて、牛に馬に、私は鶏に下げなければいけないと思う、ね。ちいっとばっかりのことは誰か(?)から頑張っとって下さいって。勿体なかけんで、んなら食べとこうか。そしてから下痢を起こす。もうその勿体ないというのは有り難いけども、その勿体ないのが汚い心になっちゃあおかげにならん。もう腹いっぱい食べたっち。鍋ん中に残っておるのをかすって食べる。いや、かすって食べるような心じゃおかげにならんと、ね。
 汚い心だから、それよりもむしろです、ね、余らしたことをお詫びさして頂いて、牛なり馬なり、またはそれを流すなり、言わば捨てるなりさしてもらわにゃいけません。もうそういうような頂き方をですね、することが信心のように思うておる人がある。腹いっぱい食べとらんけん余ったから食べる。勿体なかけん食べると、ね。そういうことは神様に対してご無礼なんですよ。なぜかと言うと、ね、命のために下さったもんだから、食物は、ね。
 食物は命のために下さったものですから、命を害するために頂いちゃいけない、ね。自分の胃、自分の腸というものの、言わば程度、度合いというものが分かっておる、自分で。3杯で腹いっぱいになるのを、余ったけんでもう(ねまっちょい?)、勿体なかけんで食べとこうというのはね、これは、命を害するために食べるからご無礼なんです、ね。
 血になるどころか肉になるどころか、ね、下痢どもしてからやせ細らんならんもとになるのです。この辺のところをひとつ、取り違えないようにしなきゃいけません、ね。ですからやはり、お醤油ひとつ使わして頂くでも、ね。私はだいたい、悪いくせでしてね、お醤油やらそのソースやらをたっぷりかけなければよう頂ききらんのです。どうしても余るんです。ですからもう初めから、家内と特約しとる。(笑)
 俺の余ったとは粗末にして、お前が頂いてくれよということにしてある。もう特約店ができとるけん、(笑)。だから、粗末にいたしません。もうお刺身なんかでもですね、私あのあれに、お醤油の中にこうたっぷりつけてなきゃ頂ききらんのです。それで、ちゃんと特約店ができとる。(笑)。
 ですから、でない方は皆さんはですね、だからもう余らないように初めからかけにゃいけん、心がけて。だからこれは私の真似しちゃいかん、ね。余らないようにそこんところへ、ああ勿体ないからとこういうそういう心がね、神様に通うんです、ね。私は最近、これは食物のことじゃないですけれども、先日、誰でしたかね、高橋さんでしたか、一緒に風呂に入った時に話したことです。
 私がこの風呂場に洗い桶半分というてから、何かに書いてから貼っとこうかと思いよると私が言いよります。洗い桶半分。これは皆さんも実行されると必ずおかげ頂くです。私は今、書いておりませんけれども、これを実行いたしております、ね。もう容器が大きかろうが小さかろうがあれ一杯汲み出さなければ気のすまない人があるです。あれ一杯入れなきゃ。私のは特別、(?)できとりますからね、大きい。だからそれに半分しか汲まないことにしておる。
 そん時ですね、ちょっと心がけるんですよ、ね。勿体ないとちょっと心掛ける。もうそれが神様に通うようですね、心の中に通うてくる有り難いもので分かるです、ね。だから、醤油一滴でもです、勿体ないと思うんです、ね。勿体ないと思うて、ちょっと余らんように初めから、ね、もう醤油でこうお吸いもんのごとしてから飲む人があるでしょうが。そして、喉の渇いた、醤油渡して、飲みすぎたねっち(笑)、ね。
 だからあげなことはやっぱり見苦しいですから、初めから勿体ないという心持ち。これが信心で、どうでもひとつ、その勿体ないという心持ちでかける。これはね、その都度都度に神様に通うんですよ、その思いが。一遍実行してごらんなさい、うん、ね。そして、どうでもたっぷりかけにゃいけんごとあるなら、さっき言うた特約店を作っとく、ね。
 湯桶の水でも私はそういうふうに思う、ね。あそこに湯桶半分、そらこれ書いとったっちゃ実行せんならなあんならんですけん、これはもう私のものと思うてですね、そんなことを思いついてから、以来私は湯桶に半分しか汲まないことに決めました。それと言うて、なら使わんのじゃない。もうそれこそ、私はどっちかと言うと(きれいごねり?)の方ですけん、もう湯桶半分でですね、もう風呂から上がるまで使わんちゅう人がありますよ、汚かですね、あげなこと。勿体なかけんでちゅうて。
 いや、本当に信心しておるとですね、やっぱ信心臭うなってくるとそげなことする人があるですよ。もう絶対、一日に洗面器一杯しか使わん(笑)。それでもう、顔洗うでもこげなことして洗いなさらん。顔の方ばこうこうやって洗う。いや、これ本当です。(笑)。洗面器で水洗う、あの、お湯なんか勿体ないで、こぼれんごと、また畳の上にのせてですね、もう絶対、こうこうするととばっちりがかかるですからね、体の方こうこうこう。(笑)ね。
 だから私はそういうね、偏見というか窮屈なことであってはならないと思う、ね。神様がもう限りなしに下さりよるとでしょうが。けれども神様とはいつも通いたい。この精進、ね、努力がです、いつも容器半分とそういう心持ち、その思う時に、思う時にです、はっと思うです。あら、入れすぎた、ね。使いすぎたりした時に、あら、もし、忘れて使った時には、すいませんとこうお詫びが出る心がね、神様と交流する、通う。食物でも同じことなんです、ね。
 ですから、特にお炊事場を承るご婦人の方たちは特にですね、若い者もおりゃ年寄りもおる。私共辺りのように、もういわゆる若い青年ばっかりではなくて、年よりもおります。というと私も言うたように( ? )もおるでしょう、ね。ですからなら、なかなかやっぱり家内もその、食物の作り方に非常に工夫するらしいんです、ね。そこで、どうぞ、年寄りにも喜んでもらい、若い者にも喜んでもらえれるような食物を作らして下さいという、もう最初からそうした祈りがいる。
 せっかくのあなたのこのお食物をですよ、せっかくのこの食べ物を、ね、そのために体を害する、いや、命を害するようなことにでもなっちゃあ相すまんことになる、ね。ですから、私はもう作る時に、その作る、調理を承っておる人達がです、そういう祈りを込めてお食物が出来上がる。その祈られて出来たものをまた、頂く者が祈って頂く、ね。こういうことになってまいりますとですね、そこに不平がない、不足がない。
 今日のその御理解の中にもありますように、ね。飲みすぎ食いすぎ、不平不足が命を侵すと。どんなにおいしい栄養になるもんでもです、こげなもんが食べられるか。こげな固かもんが、こげな柔かもんがと。不平不足を言うならですね、これは滋養になるものでも滋養になりませんと仰る。これはもう、医学的に証明されておるです、ね。
 だから最近では音楽を入れてからお食事をするのが流行ってます。心が楽しゅうなる。そしてからもうその聞き取り聞き取り、頂かにゃん。もうおいしかつも、おいしなかつも分からんごと聞く(笑)。いやだから、やっぱそうらしいんです、ね。人間のこの心理状態っていうのは、そんなに不可思議なものがある。
 だから信心さして頂く者ならわざわざ音楽でん聞かんでんよかですからね。(笑)。ね、拍手してから頂きますという心持ち、ね。どうぞ、この辺のところをですね、金光様の御信心をする者は本気で実行しなさらなきゃいけません。そして、余ったならね、それはね、いよいよなら、もう捨てなければいけません。もう勿体なかけん、明日までとっとこうちゅう。ちっとは匂いがしよるばってん、皆で一杯ずつ食べてくれんの。して、みんな下痢をおこして。こげんとは神様に対して相すまん、ね。
 ですからね、神様がちょっとその、ね、出来すぎたところはお詫びはお詫びとしてです、ね、もうこのへんのところをですよ、ひとつあの、またひっかからんようにせにゃいかん、ね。

 昔あの、妊娠をいたしますと、堕胎をすると堕胎罪でやかましかと、ね。これは法で、今はそうじゃない、もう流行。もう3人目はいらんちゅうごたるふうで、もう皆がその病院に行く。その先生がああして、毎朝、婦人会の先生ですね、参ってみえます。それが一時、非常にですね、自分の心に侵擾(しんじょう)なさるもんですから、ひっかかられることがあった。
 これだけ、言うなら小さい命を自分がねつぶしておる。もう本当にそれがですね、手が振るうように思い出したら感じられるようになったと。そのことのお取次を願われた時にですね、それは例えて言う、天地の親神様の目からご覧になればですよ、ね。親神様、ご覧、見りゃあ、もう米一粒も人間一人もあんまり変わらんとですよ、ね。ですからそれがもう、当たり前のこと。もう米でん何でんね、ご飯でん何でんがばがば捨てることが当たり前になっちゃいかんけれどもね、お詫びをしてさして頂きゃあです、お粗末になることをお詫びをさして頂きゃ、ご無礼にはならん。
 まあそれはそれに大変、懇切な、言わばその学者ですから、学者に分かるような理路整然とした御理解でした。ですから、以来、ひっかからない。いや、むしろ、世の人達の助からることのためにこう祈られるというような、気持ちが開けてきた、ね。なら、それはまたそれも今日の食物とは関わりはないのですけれどもです、ね。それは確かにお粗末にすることはいけないけれども、そこは詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るから。
 それにひっかかったら、ひっかかることがですね、自分方に不幸が起こったり、ね、次の難儀なことがそのようなことで招くようなことになるのでございますよ、うん。だから、それは食物でも同じこと、ね。ですから、今日の、私あの(とばん?)に書いてございますでしょうが。食物訓をひとつ書き写していってですね、どうでもそういう頂き方。金光様の信心しよるけん、そら(ねぶららにゃん?)ごたることがあっちゃならん。
 これははっきりあの、三代金光様ね、お亡くなりました三代金光様が、16歳の時に九州におなりになりました。その時に小倉の桂先生がお供をして九州中を回られたんですね。その時ある旅館で金光様のお相伴をなされながらお食事をなさった、ね。しかしやっぱり生神様ですね、三代金光様は。桂先生がご飯を終わりになってから、そのお醤油が余ったんですね、きっと。
 それで、お茶をかけてからこうやって召し上がっとった。そしたらその16歳の金光様がね、桂先生にこう仰った。桂さん、見苦しゅうございますと仰ったそうです、ね。そういうことが信心じゃありませんということなんです、ね。しかも、九州随一の大徳の先生と言われる桂先生が、ね。旅館に行ってからゆすいで頂くてんなんてんちゅうようなことは見苦しいてと金光様は指摘してそれを仰っておられますですね。
 それかと言うてですね、まあ信心臭うてもよい、そうせにゃおられない時はこりゃまた別ですよ、ね。それをひとつの修行とでもさして頂いておる時にはなさらにゃいけませんよ。あのこの頃から見えましたあの(すだ?)博士ですね。すだ博士なんか、私、いつもお食事さして頂きましたが、これまた見事です。もうお吸い物のお碗でもゆすいで召し上がります。
 あの久留米の駅でちょっと時間がありましたからお茶を差し上げたんです。コーヒーを頂いた。コーヒーをゆすいでから、して頂かれよるです、うん。それにもう徹底しておられるです、ね。だから、それは大変、おかげ、ならその度に、さっき私が申しますように、神様を思いなさるわけなんです、ね。これはいい。
 けれども私が言うように、(ねまったもん?)でん多過ぎとるもんまで食べてね、勿体ないで食べちゃ、そげな勿体ないじゃ汚い心だと、ね。特に夏は、ひとつこの辺のところを用心してですね、心がけさして頂いて、ね。食物のために命を害するようなことがないように心がけさしてもらうことが信心だと思わにゃいけません、ね。
 そして、初めからの心がけ、言わばこれは、ならお風呂入る時に、容器半分、これ私の心の中にいつもある、ね。もう結構私のは大きいですから容器半分で結構なんです。それをですね、私もそげんでしたもん、以前に。もういっぱい、(すずるごと?)汲まにゃ気持ちの悪か、ね。それけんて言うて、またこまか洗面器ですっと(?)らんと手も入らんごとなるですからね。
 だから、そこんにきはその、あんまり理屈にならんようにですね、十分に使わせて頂いて、けれどもその都度都度に容器半分、醤油は余らんようにと、初めからそういう思いがね、思いが神様へ通う、ね。だから、食物訓のところは皆さん今日はそこのへんのところでお話をやめますからね、どうぞようここんところを心がけて下さいよ。同時にその食物訓の本当の真意、本当の心。
 もちそのそこにあるもの、ね。それを少しお話をしたい。「食物はみな人の命のために天地の神が作りあたえ給うものぞ」と仰るようにです、お互いがだんだん信心を頂かして頂きますとね、信心がもうこよない有り難いものになってくる。もう私から信心を切り離せなくなってくる。いや、信心は私の命だというようになってくる。いや、本当言うたら、私の命よりも信心が大事だということにまでなってくるのですよ、ね。
 ですから、皆さんはまあ、もう、ね、今日、お話聞いて下さる方は、ね、信心は命というところまで大事なものにしておられるということといたしまして、お話さしてもらう。信心は、ね、おかげ頂ききらんならもうやめる。合楽よりかどこどこの方が御比礼が立つ。ただ、さっち金光様だけじゃなかもんじゃけん、信心で神様でさえありゃよかもんじゃけんというようなね、ようなことでは、結局、信心がまあだ命になっていないのだと、ね。
 ちょうど、神様をね、どうでしょうかね、神様を小遣いのごと思うとる時代です。神様を口では神様ち言いよるけど、小遣いさんて言いよっとと同じことですよ。金光様ちからもう、自動車に乗る(でんなんでんこうしてしりばかかえてもらわにゃんごとおる?)、本当ですよ、ね。もう命、ね、信心が自分の命ということになってくるところの心の叫び、ね。芯から生まれてくる金光様、これは別です、ね。
 けれども自動車に乗るでん、ちょっと加勢して下さいと言わんばかりというような、言い方は神様を小遣いさんのごとあると、ね。ちょいと集金に行きますけんて、まるきり集金人のごと、金光様お願いしますち、ね。ですからそれは、神様を小遣いさんのように思うておる時代もあっていいんです、ね。誰だって初めはそうなんです、ね。まるきりもう、トランプ占いのごと思うておった。右がよかじゃろうか左がよかじゃろうか、ね。
 今日も福岡から参って来なさる方、そういう方があったんです、ね。ですから私はそのことを申しました。そんくらいなことならもうわざわざと福岡まで参らんでん、どっかデパート辺にトランプ占いか何かがあるでしょうがち私は言いました、ほんなこ。だから、その方がよかですよと、高い金使うて。しかもそれは話を聞けば聞くほどに難儀なんです。この頃、商売辞めた方がよかじゃろうか、どうじゃろうかじゃった。繁盛するようお願いするから続けなさいと私が言うとった。
 そしたら持ち家を売りたいち。んならお願いするばってんか、まあ三月も四月もその、売るようにお願いしたところが、その中に入ってた人が出た、ね。それで、そんならいよいよ、売るという、売るようになってからお願いさして頂こうと。ところが先生、三月も四月も空けとったっちゃ勿体なかけんで貸そうかちも思いよりますち。神様にお願いをしておったから人が出たんじゃないか、ね。
 それも、神様があなたがもう三月も四月もおってくれなさらんごとあるなら、もう馬鹿らしいけんでもう、人に貸しますと。そういう言い方があるかと、ね。そして、主人が言いよります、ね、義理の子供さんがあるわけですよ。俺はもうこの頃働くとにね、働き甲斐がなくなった。あんやつ、子供どんがあげん育ちよるがあん子供どんが俺の財産のために兄弟喧嘩どんするごたる雰囲気が(もう?)からある。
 だからもう俺は商売を細してから、ね、合楽の先生は繁盛するように大きくするようにと言わっしゃったけれども、俺は商売を細うするっちゅう、ね。それでも家も何もかんも売ってしもうちから、ね、もう俺は金貯めること止めたとこう言われる。私はそれを聞きよってから悲しゅうなりましたね、ね。
 まあだんなら金が貯まっとるわけでもないとですよ。で、ね、それに一生懸命働いて貯まりどんしたならば、子供どんがそのために喧嘩するごたることなら、俺は働き甲斐がないっちゅうのです。もう貯まってからならともかくばってんですね、貯まりもせんとに心配する。だからそういう取り越し苦労はやめなさいって私、ね。
 そうして、今まではあなた方にはね、その財産なら財産の中に神様の信用、神様の裏づけもなかった。言うならばあんたどんが偽札しかりのようなことをしとる。金があってもね、神様のこれに、ちゃんと裏づけが、判が押しちゃなかもん。だからその金のために困らにゃん。偽札を使うと、やはりお上に罰されるようにですね、天地の親神様がですね、ちゃんとその、これに裏づけをして下さる、ね。
 そうですよ、もう天地の信用のない、自分の我情我欲で貯め上げたお金はもう、みんな偽札ですよ。それを食物訓の方から言うならですね、もうそれはもう(?)ごたるぼたもちのごとあるばってん、その中には毒の入ったり、ばい菌の入ったりしとるとですよ。だからそれを使うと必ず腹痛を起こしたりです、それを使うと必ず困った難儀なことになってくるです。
 ばい菌の、言うならば偽札。だから捕まれて(?)ばせられなんことが必ずくるっちゅう。だから、私がね、あなたがたの持っとる財産をいっぺん失くしてしまいなさいとは言わんから、持っておる財産に神様のご信用がつくような、おかげを頂きなさい、ね。私共がここで使わして頂いておる千円なら千円というお金をです、ね。日本の国家と言うものがこれを保障しとる。
 だから、あれがどこででも使え、いわゆる外国ででも、ね、それが使え、使う時にはそれが金貨と引きかえれるようになっている、ね、だからどこででも仕えるようになっとる。それは偽札じゃなかから、ね。私共が頂いておる財産でもお金でも同じことなんだ。だからそういう取り越し苦労はやめてですね、ひとつどうですか、あなたがその奥さんが時々参って来るから、あなたがいっちょ本気でお参りをさして頂いて、ね、もう言うなら家内や主人はもうその貯める楽しみもなかっちゃけん、もう死んどるようなもんじゃから、あんたの、ね、(はんしん?)のあなたが生き生きとしたおかげを頂いて、主人も助かり子供も助かっていけれる、しかも子供達にできるだけ沢山の財産が、ね。譲ってやれて子供達も喜んでもえるようなおかげを頂くために、これからやり直しなさったらどうじゃろうかと言うて私は話したんです。
 その話を後ろで聞いておった人があったんです。その人も久しぶりに参って来た、ね。そして、子供がそのお金で喧嘩するか喧嘩せんかまだ分からんのに、まあ言うならば疑うちゃある。それからまた取り越し苦労をすると、そのことが耳に入ったらしいんです、後ろにおってから。ほんで、ここにみえてから、先生もう今日を限り、今月今日をただ今を限りに、子供を疑うたり、ね、取り越し苦労をせんようにいたしますから、そのことを神様にお願いして下さいとこう言われる。
 あんたがそげんしたけんちゅうちから、いっちょんあのう、おかげは頂かんよって私が言いましたら、妙な顔をしておる、ね。それをね、あんたが疑う、疑わんですむ、ね、取り越し苦労をせんですむおかげを頂いたらね、おかげになるけれども、ね。疑わしいことがあっても疑わん。
 もうこの頃、娘が一週間ずつも泊まってくるじゃん。まあだ二十歳にもならん、ね。やっぱ親として疑わにゃおられないわけです、ね。そりゃやっぱ疑うのがほんなこつですよね、あれ。そげんと疑わんちゅうたっちゃおかしい、うん。で、この頃から奥さんを亡くしておられます、ね。だから、家内をどうでもひとつもらわにゃいかん。子供がおりますけども、子供が親の後は継がんて言う。
 それでその、おかげ頂きたい。そのためには、ひとつの条件としてです、人を疑わないとか、または取り越し苦労をしないというおかげを頂きたいとこう言うのでしょう。ほら有り難いこと、ね。けれどもね、信心さして頂いておるうちに、疑わんですむようになり、信心しておるうちに取り越し苦労をせんですむというようなおかげを頂かなければ、しかし、おかげには繋がらないよと、ね。

 今日は私、午前中にもう、今日はもう本当にもう、人間関係というものがこんなにも苦しいことか、じゅつないことかといったようなお届けをもう続けてさして頂いた。こっちの方がくたびれた、ね。馬鹿となれ阿呆となれと。馬鹿になった阿呆になった、それでおかげを頂いた。ところがまた、またも馬鹿にさるれるごたるこつば起こってきた。だから今度は馬鹿にゃなられんちゅうわけなんです。
 いや、けれどもですね、話ではそれだけじゃけんで、そりゃ、この前も馬鹿になったのに今度は馬鹿になられるっちゅうごたるけれどもですね、それがですね、利害関係が伴うておってごらんなさい、なかなかなれんですから。それが例えば自分の肉親の子供であれ親であれということになるとです、もう我慢ができないですから、ね。嫁子に娘をやっている、本当に馬鹿と阿呆になっておかげを頂いた。
 おかげで円満にいきよると言いよったのもつかの間。また、目を泣き腫らして帰って来た。話を聞けば聞くほどにもう重々、向こうが悪か、ね。だからもう今度だけはもうどうでんこうでん、かたつけてもらわにゃならんとこういうわけなんです、ね。さあ、今度も馬鹿と阿呆になったっちゃ、この前もなっとるけんよかろうばってんですね、さあ、この前もあげな、ちょっとおかげ頂いたからですね、(笑)、ならよかろうごとあるばってんさあ、その利害関係じゃないけれども、肉親の情がからんでるんです、もう。
 もう娘がかわゆうしてこたえんとです。そらもうか弱い女を男のくせに叩いたりどうしたり、しかも棒で叩いたりなんか。もうそげなところでん一時でん置かれんというのが母親の情なんだ、ね。ですから、なかなか馬鹿になる阿呆になるということもですね、ただ、ね、利害関係がなかったり、痛うもなかったり痒うもなかこつなら馬鹿と阿呆、誰んなりゃよかです。
 けれども馬鹿と阿呆というのはですね、やはりそこんところが分からにゃいかんとです、ね。★そうしたらね、私、そのことを神様にお願いさしてもらいよりましたらね、あれは何ちゅうでしょうか、亡くなってから一週間、一週間にお寺さんにお参りしましょう、ずっと。そしてからこげなふうな白かつば持って行くでしょうが、こう、何ちゅうですか、あれは。(そとわ?)、な。
 あれに何か書いてから、そしてそとわをこう立てましょう。四十九日かの間、何本もこう立っとりますもんね。あのそとわを頂くんですよ、ね。だから私も改めて、私自身も分からして頂いたんですけれども、皆さんが実際、ここんところを今日は分かって頂きたいと思うんです、ね。
 例えば、本当にあの時に先生が、今日も最近、正義さんが言うておりましたように、親先生の言われて、とにかく先生、やっぱりどうにもなからんこと言わっしゃるじゃろうかと。けれども、3年経ち5年経っとるうちに、やはり親先生の仰るとがほんなこつじゃったとこう言うわけなんです。もうこの人も、そりゃもう本当に私から聞いとっても、そげん馬鹿になることいるかいっち言いござったです、ほんなこ、ね。
 これもやはり、この肉親の情がからんだりですね、利害関係が伴うておる、ね。それを私がなら馬鹿と阿呆にして、ようやく3年経って5年経って初めてそれが分かってきた。だから次の問題だって同じ理屈なんだ、ね。それが馬鹿になれたりなれなかったりというのが実際じゃなかろうかとこう思うのですよ。だからね、これが本当の自分のものになってしまわなければいけない、ね。
 そこでです、ね、あの時には自分を、馬鹿になれ阿呆になれということは自分を無くする、空しゅうするということなんだ。そうでしょうが。自分を空しゅうすることなんだ、ね。言うなら自分を葬ることなんだ、ね。自分をあの時に葬ったところがです、神様の働きが働きゅうなって、このような手のひらを返すようなおかげを頂いたんだけれども、さあ、この死んどったつが、ね、こう思ったとがちいっとばかり生きてきた。
 手を動かしたり足を動かしたりするごとなってきた。いわゆる迷うて出て来るようになったわけなんです。そこで、私は仏教のことよく分からんけれども、あのそとわというのはです、ね、もうあなたは亡くなっておるとですよと、ね、いわゆるどうぞ立派に成仏して下さいよ、立派に成仏して下さいよと7×7、49日の間を私、あのそとわを立てていくのが、そういう意味じゃかなかろうかと私は思うたんです、ね。
 迷うて出て来てちゃんならいけませんよ、立派に成仏して下さいよ。立派に成仏して下さいよと言うて、そとわを一本立てていかなければならないように、私共の心が死んだ、いや死んだじゃない、私共の、言わば我情我欲というものを葬った、ね。自分の思いというものを捨てきった、ね。それがやはり人間ですから、まだそれが肉親関係であったり利害関係が伴いますと、それがまたよみがえってくる。迷うて出て来る。そういう時にもう一遍、追い討ちをかけなければいけないということ。そとわを立てていかなければいけないということ、ね。
 この前はおかげ頂いたばってん、もう今度のば我慢がでけんという時にです、もう一遍、そこにそとわを立てて、はあ、あの時に自分の心がもう神様任せ、親先生任せ、もう自分の心を葬っとったのが、今、迷うて出てきておる姿が、もう今度は許されん、今度は堪えられんと言うておるのがそれなんだから、ね。その迷うてきたものがこの世に出てきたらどういうことに皆さんなると思うですか。
 それこそ、怖い結果になる、ならないはずがないです。そういうことでですね、ね。そして、なら難儀はまたそれから、先から先と続いていくわけなんですよ。怖いことは続いていくのです、ね。そこで、今日、私は食物訓から、ね、食物訓の御理解を聞いて頂いて、この食物訓の本当の真意。その底の神様の願い思いというものはです、食物が人の命のために作りあたえられたものであるようにです、ね。
 信心がもう我の命であり、いや、命以上であるというその命以上のものであり、命であるという、皆さん、皆さんが分かっておると仮定して今日話しておるわけですよ、ね。もうだから、信心は皆さんの命なんです。だから、その命のためにです、ね、命のためにこの難儀な問題もこの嫌な問題も、損になるような問題も、ね。それは肉親の情がからんだらたまらんけれども、それもみんな命のために神様があたえて下さるんだというですね、信念を持たせて頂いて、信心を頂いていく時にです、それが命のためにならないはずがない、心の命の、言わば命の血にも肉にもなっていき、それがお徳になっていくのです、ね。
 今朝の御理解の中に、ね。覚えておりますですかね。頭の願い、ね、心の叫び、ね、頭の願い、心の叫びですね。肉体の訴えか、ね。魂の安らぎ。そういうような御理解を頂いたんです、ね。頭の、皆さんが初めの間は、頭で右なりがええ、左がなりがよかと思うて、頭のなりで信心が始まるです、ね。だんだん、信心が分からして頂きよりますとです、もう心の叫びが、ね、もう心の底から、まずこれは、金じゃない物じゃない、人間関係じゃない、その中にあって私自身が、これがひとつ助からなければならんという、心の底からの叫びが出てくる。
 私が助かる以外にはないのだと、ね。そこにです、ね、安らぎがある、魂の安らぎ、ね。「欲しいとも思わぬ雨だれの音を聞く」と、ね。「欲しいとも思わぬ雨だれの音を聞く」。縁先に今日のようなお湿りの日にじっと座りながら瞑目、瞑想してふけって。何も欲しいとも思わない。痛くもなからなければ痒くもない。ひもじいこともなからなきゃ、喉が乾いておることもない。まあ何と有り難いことであろうかと。
 ところがだんだん、喉が渇いてくると水が欲しいと思うようになり、腹が減ってくるとご飯が食べたいと思うようになる、ね。だから、そこんところがね、確かめさして頂かなければならん、言わばこれは私のこれは句ですけれども、もう10年ぐらい前に頂いた御理解なんですけれどもね、「欲しいとも思わぬ雨だれの音をきく」というのは、どうしてそういうふうに欲しいと思わんかと。必要な物は神様があたえて下さる感じ、信念があるからなんです。私が喉が渇く時には必ず神様が水を与え給う。私がお金がいる時には、私が食物がいる時には必ず、金が食物が与えられることを確信しておるから、そういう境地が、いわゆる魂の安らぎが頂けるのですよ、ね。
 その魂の安らぎを願って求めての信心。それには信心がまず自分の命だというところまでいかなきゃいけん。そしてその命のために与えられるところの様々な問題を全部、それを神愛と分からしてもらう。命のために下さっておるもんだと思い込ましてもらう、ね。命、命より大事なものはない、ね。しかも信心が命というものになっておるのであるから、それが肉親の情であろうが、利害関係であろうが、命にはかえられない。
 だからそれを、ね、合掌して受け、または元気な心で受けていけれるところの信心がだんだん身についてくるのでございます。それでもできない時には今の御理解じゃないですけれども、はあ、まあだ自分が、我情我欲が迷うて出てきよる。ここにそとわを一本立てなければならない時というようにです、私はおかげを頂いていく努力というか稽古がね、積み重ねられていく時に、ね。
 初めて魂の安らぎを頂くところのおかげ、ね、それこそもうこのまま、もういつ目をつぶってもええというような、ね。信心の最高の目指しというのはここんところ、ね。人間の重大事というならもう、生か死かそこの時なんです。死ぬる生きるということなんだ、ね。その死ぬることですらがです、ね、有り難く、死に際にも神様にお礼が言えながら、死んでいけれるような境地が開けてくるのです、ね。
 魂の安らぎを頂くからなんです、ね。そういう皆さん、おかげを頂いて頂いてです、今日の食物訓を初めに申しましたように、いよいよ暑うなりますから、ね、あのような頂き方をして、どうぞお粗末ご無礼のないような、いよいよ、命のために毒になるようなことのないようなおかげを頂くと同時に、ね、それをもう一つ、食物訓をです、ね、これを私共の命以上の信心のために、天地の親神様がつくりあたえて下さった一切の事柄である。難儀のように見えておるけれども神愛であると分からして頂いて、それを有り難く頂かしてもらう稽古をね、本気でさして頂くところから、ね、魂の安らぎが頂けるということを申しましたですね。どうぞ。



明渡真